* さようなら *



 
俺は仕事の休憩時間、いつものようにさびれた会社の非常階段で煙草をふかしていた。

俺の勤める信用課は五階にある。

そこから一階分ほど上がった位置を定位置にしていつも休憩している。


空を見るわけでも、鳥や建物を見るわけでもなく、ただ下に行き交う人間の群れと車の列を眺めていた。

パトカーが騒々しくサイレンを鳴らして、会社の真下あたりに止まっている。

そしてそれを取り囲むようにして、人だかりができていた。


何かあったのか…事故か、強盗か、殺人か…

俺はひどく無関心に、煙草の煙をため息と一緒に吐き出した。


どうせこの世は腐っているんだ。

めまぐるしく変わっていく世の中、恐ろしいほどに冷め切った人間、道端で動かなくなった動物。

何が起きたって不思議ではない。


俺はその場に座り込んだ。

煙草を灰色の床でもみ消して、二本目を口にくわえた。


ライターをポケットから出そうとした瞬間、自分の目を疑った。

何気なく上を向くと、上から女が落ちてくるのが見えたんだ。


マジかよ…っ!


俺は心臓を思い切り叩かれたような衝撃を受けて、その場から立ち上がった。

ライターを握り締めた手をポケットから引っ張りだし、手すりを握り締めた。その拍子に、ポケットに詰め込んでいた十円玉や請求書が音を立てて落ちた。


自殺だ…っ

瞬間的に思った俺は、一気に血の気がひくのを感じた。

手には汗がじっとりと滲んでいる。


反射的に閉じてしまっていた目を、ゆっくりと開けてみる。

もう、女は地面に叩きつけられているはずだ。


そう、普通に考えればそのはずだ。

でも俺の目の前には、その「普通」ではない光景がある。


女はまだ地面に叩きつけられてはいなかった。

まだ、俺の見えるところにいる。


そう、目の前に。


女は、ゆっくりと下へ落ちていっている。

いや、降りると言う方が正しいのかもしれない。

女は逆さに向いているのに、長いウェーブのかかった茶色い髪や、柔らかそうな桃色のワンピースの裾は、重力に反して空へ向かっている。

透き通っているような真っ白い肌は、少し青白い。

まるで…死人だ。

恐ろしいはずの光景なのに、寂しさの充満した空気しか感じられなかった。


俺は、その女に手を伸ばした。

理由はわからない。

助けたかったから?いや、違う。

女が寂しそうだったから?いや、違う。

なぜか、惹かれた。

女を取り囲む空気まで、全部に。


女は触れられる距離にいるのに、俺の手は女の体に触れることはできなかった。

手は、桃色の布も体もすり抜けて、空気を掴んだだけだった。



絶望なのか、なんの感情か、俺の左頬には涙が伝っていた。


俺が自分の涙に気づいたとき、女は俺の方へ手を伸ばした。

そして、触れることの出来なかった女の手が、俺の頬を撫でて涙を拭った。

冷たい指先が触れた頬は、温かかった。


女の、俺と同じ左頬には涙。

俺が同じように涙を拭おうと手を伸ばす。

触れられないと分かっているのに、手は動いていた。


指先には冷たい水の感触。


女は、柔らかく笑った。

氷のような表情に、笑顔を浮かべて、降りる速さを増した。


女の口は開いてはいなかったけれど、俺には女の声が聞こえた。

耳にではなく、心臓に。


「さようなら」


下には、パトカーの音が響いていた。
 
 


END
 

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